今日ネットで知ったこと

ホヤ - Wikipedia
幼生はオタマジャクシのように泳ぎ回るが成体は固着生活。

  • 日本マラソンの父・金栗 四三(かなぐり しそう)

(以下らばQより

氏が出場したのは明治晩年1912年のストックホルム・オリンピック。これが日本のオリンピック初参加で、前年の国内予選では30分近くも世界記録を更新するという、名誉と期待を背負ったものでした。

ところが、北欧の大会にもかかわらず異常気象のため40度近い猛暑に襲われ、68人中34人が棄権するというサバイバルレースになってしまい、彼もまた日射病で棄権してしまいます。しかしながら、連絡ミスによって「棄権」の報告が伝わらずに、「行方不明」という扱いになりました。

この大会では亡くなった方もいたそうです。

そして彼はその後、日本のマラソンの発展に尽力します。

ストックホルムでの敗因を分析、考え出した真夏の房総海岸での「耐熱練習」心肺機能の充実をはかる富士登山競争、高地トレーニン、そして、孤独な長距離の練習をチームでやろうという箱根駅伝の企画、さらには、女子体育の奨励など、現在のマラソン界につながるあらゆる試みが金栗四三の発案でなされました。
(出典: 熊本・いいねっと! )

彼の唯一心残りだったことはオリンピックの棄権でしたが、晩年にオリンピック委員会からスウェーデン・オリンピック記念行事の招待が届きます。

「あなたはマラソン競技で行方不明になったままなので、ゴールしに来てください。」
その粋なはからいに応え、スーツ、ネクタイ、コートといういでたちでゴールを果たします。75歳でした。

54年8ヶ月6日5時間32分20秒3でゴールを果たした瞬間、「日本の金栗がただ今ゴール。タイムは55年…。これで第5回ストックホルム大会の全日程は終わりました」とアナウンスされた。これに答えて四三は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とユーモアあふれるスピーチをした。
(出典:熊本県教育情報システム:金栗四三展・図録)

いい話だあ〜〜!(TΔT)